菜食主義者(ベジタリアン)はドコサヘキサエン酸(DHA)が欠乏しやすい
【魚が人類の知能を発達させた】
乾燥重量で脳組織の50から60%は脂質から構成されていますが、このうち約3分の1はアラキドン酸やドコサヘキサエン酸のような多価不飽和脂肪酸です。
アラキドン酸は必須脂肪酸で人間は体内で合成できません。ドコサヘキサン酸は同じω3系不飽和脂肪酸のα-リノレン酸から体内で変換されますが、その効率は極めて悪いので、ドコサヘキサエン酸も必須脂肪酸に分類されています。
つまり、脳の成長に必要なアラキドン酸とドコサヘキサエン酸は人体内では合成できないので、食事から摂取しなければなりませんが、この2つの脂肪酸は植物性食物には少ししか含まれていません。アラキドン酸は肉、ドコサヘキサエン酸は魚の脂に多く含まれています。
チンパンジーの脳容積は400cc程度で、現代人の成人男性の脳容積の平均は約1350ccです。チンパンジーと同程度の脳容積しかなかった初期人類から、高度の知能をもった現生人類に進化する過程で脳容積は3倍以上に増えました。動物性の栄養素が増えたことが、人類の脳を大きく成長させ、知能の発達に大きく寄与したと考えられています。
人類が脳の大きさを増やすことができたのは、魚などの水産物を食べるようになったからと考えられています。人類(ホモ・サピエンス)への進化が、特に土地が淡水と出会う場所に位置する東アフリカの特徴的な生態系からのDHAが豊富な食事で起こったことを示す証拠があります。
初期人類の化石が東アフリカで発見されています。東アフリカにはアフリカ大陸を南北に縦断する大地溝帯(Great Rift Valley)が存在します。大地溝帯はプレート境界の一つで、幅35 〜 100 km、総延長は7000 kmにのぼる巨大な谷を形成しています。大地溝帯の形成は約1000万年から500万年前から始まったと考えられています。 大陸が分裂するように働く力によって形成された深い裂け目に水が流入してタンガニィカ湖やマラウィ湖などの多数の湖ができました。
これらの湖には魚などの水産物が豊富に取れます。魚にはDHAが豊富に含まれます。 すなわち、類人猿から人類への進化は、多くの巨大な淡水湖を含む独特の地質環境を形成した東アフリカ大地溝帯の領域で起こったと考えられています。(下図)
図:東アフリカにはアフリカ大陸を南北に縦断する大地溝帯(Great Rift Valley)が存在する。大地溝帯はプレート境界の一つで、大陸が分裂するように働く力によって形成された深い裂け目に水が流入して多数の湖ができた。初期人類の化石がこの地域で多数発見されている。
熱帯淡水魚介類の長鎖多不飽和脂質の比率は、既知の他のどの食料源よりも人間の脳の脂質比に類似しています。湖沼の食物を摂取することで、体重を増やすことなく大脳皮質の成長を開始し、維持することができたのです。 「サルは何を食べてヒトになったか?」という問題があると、「魚」というのが正解なのかもしれません。
【精神神経機能におけるDHAの役割】
ニューロン(神経細胞)は幾つかの化学物質を介して互いにコミュニケーションを取りながら、思考や行動のひとつひとつを決めています。一つのニューロンは他の多数のニューロンからの情報を受け取り、それを総合して自身の信号を発します。ニューロンの枝と枝の結合部位をシナプスと言います。 一つのニューロンは他の多数のニューロンとシナプス結合によって複雑な神経細胞のネットワーク(神経回路)を形成しています。(下図)
図:(左)ニューロンの結合部位であるシナプスでは、前シナプスニューロンから放出された神経伝達物質が後シナプスニューロンの受容体に結合することによって、シナプス間の信号が伝達される。
(右)多数のニューロンが相互にシナプスを介して信号のやり取りを行うことによってニューロンのネットワーク(神経回路)を形成している。
ニューロン(神経細胞)の成長と分化、およびニューロンのシグナル伝達を含む脳機能全体において、ドコサヘキサエン酸(DHA)は重要な役割を担っています。
DHAレベルは乳児の初期の脳の発達に影響を与えますが、潜在的な影響は成人期にも観察されています。
最適な視力の発達にもDHAは貢献しています。これは、網膜の桿体外節膜に大量のDHAが存在することによって裏付けられています。
多くの疫学研究は、DHAの食事摂取量が少ないと、認知機能低下および神経変性および精神障害の発症のリスクが高いことを示しています。細胞膜のグリセロリン脂質からのDHAの喪失は、膜脂質の柔軟性と流動性を低下させ、これが細胞膜の受容体や電位依存性イオンチャネルや酵素の正常な機能に影響を及ぼします。これは、セカンドメッセンジャーシステム、神経伝達物質の放出、およびそれに続く下流のカスケードに影響を及ぼし、脳と視覚機能に有害な変化をもたらします。
食事のオメガ3多価不飽和脂肪酸の欠乏が、学習の変化、ストレスへの対処、行動の変化、視覚機能の異常をもたらすことが明らかになっています。
循環血漿DHAの量は、加齢中の認知能力と有意に関連しています。血漿DNAの量の低下は認知機能の低下と相関しています。
高レベルのオメガ3多価不飽和脂肪酸を含む食品の摂取量が多いこと、またはオメガ6多価不飽和脂肪酸の摂取量が少ないことを特徴とする食事は、アルツハイマー病やその他の脳障害の発生率の低下と強く関連しています。
メタアナリシスの研究では、1日あたりのDHA摂取量を0.1 g増やすと、アルツハイマー病のリスクが37%減少すると結論付けられました。DHAの低下は、認知機能の低下や主要な精神障害にも関与していることが示唆されており、DHAの不足がうつ病の発症に関連している可能性があるという証拠もあります。したがって、DHAによる治療は、神経変性疾患の管理における貴重な治療法となる可能性があります。
DHAの補給は、注意欠陥多動性障害、双極性障害、統合失調症、衝動性行動、および認知に関連するいくつかの行動を改善することが指摘されています。
以上のようにドコサヘキサエン酸(DHA)は正常な脳の発達と機能に必要です。DHAは人間の体内で合成することはできず、血漿によって脳に供給される必要があります。つまり、不足しないように食事からの摂取が重要です。
【ベジタリアン(菜食主義者)はDHAが不足しやすい】
『ベジタリアン(vegetarian)』とは、肉や魚介類などの動物性食品を食べず、野菜などの植物性食品を食べる人のことです。日本では『菜食主義者』とよばれています。卵製品と乳製品は本人の判断に任せられており、食べても構いません。
肉や魚介類のほか、卵製品や乳製品、蜂蜜を含めた動物性食品を一切口にしない人のことを『ビーガン(vegan)』と言います。日本では「完全菜食主義者」と呼ばれています。ビーガンの人のなかには、肉や魚介類などの食品だけでなく、衣類や生活用品も動物性のものを使わない人もいます。 ビーガンの思想は動物愛護が基礎になっているためです。
一般に、「ベジタリアンでいることは健康に良い」と言われています。がん、高血圧、糖尿病、肥満などの生活習慣病や認知症などを引き起こすリスクが減少するという研究結果も報告されています。 しかし、食生活が極端になってしまうことから、かえって健康に良くないという考えも指摘されており、一概に健康に良いとは言い切れません。
完全菜食主義のビーガンにとって特に懸念される微量栄養素には、ビタミンB12、ビタミンD、カルシウム、長鎖n-3(オメガ-3)脂肪酸のDHAが含まれます。ビーガンがこれらの栄養素で強化された食品を定期的に摂取しない限り、適切なサプリメントを摂取する必要があります。
n-3(オメガ-3)多価不飽和脂肪酸にはα-リノレン酸、エイコサペンタエン酸(EPA)、ドコサヘキサンエン酸(DHA)があります。
α-リノレン酸は炭素数18で二重結合は3個です。EPAは炭素数20で二重結合は5個です。DHAは炭素数22で二重結合は6個です。
α-リノレン酸は亜麻の種子(亜麻仁)の油の亜麻仁油、荏胡麻(エゴマ)の種子のエゴマ油など植物油に多く含まれます。 一方、EPAとDHAは微細藻類や魚に多く含まれ、植物にはほとんど含まれません。体内でα-リノレン酸からEPAには多少の変換はありますが、人間ではα-リノレン酸を摂取してもDHAにはほとんど変換されません。従って、完全菜食主義のビーガンの人はDHAが不足することが指摘されています。(下図)
図:α-リノレン酸(①)は亜麻の種子や荏胡麻(エゴマ)の種子など植物油に含まれる(②)。エイコサペンタエン酸(③)とドコサヘキサエン酸(④)は微細藻類(⑤)や魚類(⑥)に多く含まれるが植物油には含まれない。α-リノレン酸を摂取すると一部はエイコサペンタエン酸に変換される(⑦)。しかしドコサヘキサエン酸への変換は極めて少ない(⑧)。したがって、完全菜食主義の人はドコサヘキサエン酸が不足しやすい。
【ドコサヘキサエン酸(DHA)は微細藻類が作っている】
魚に含まれるエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)は魚の体内で合成されているのではありません。EPAとDHAを作っているのは微細藻類です。
プランクトンが微細藻類を食べ、小型魚がプランクトンを食べ、大型魚が小型魚を食べるという食物連鎖によって、サバやサンマやカツオやマグロなどの魚油にEPAやDHAが蓄積しています。人間はこれらの魚を食べることによってEPAやDHAを摂取しています。
菜食主義の人は魚を食べることができません。魚由来のDHA/EPAも動物由来という理由で拒否される場合もあります。しかし、微細藻類は植物ですので、微細藻類由来のDHA/EPAの摂取は抵抗がありません。菜食主義者のDHA補充の目的で微細藻類のDHAが注目されています。(下図)
図:オメガ3系多価不飽和脂肪酸のエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)は微細藻類が合成している。プランクトンが微細藻類を食べ、小型魚がプランクトンを食べ、大型魚が小型魚を食べるという食物連鎖によって、魚油にEPAやDHAが蓄積している。
【菜食主義の人は微細藻類由来DHAのサプリメントの摂取が推奨されている】
以下のような論文があります。
Bioavailability and potential uses of vegetarian sources of omega-3 fatty acids: a review of the literature(菜食主義者におけるオメガ3脂肪酸の供給源の生物学的利用能と潜在的な使用:文献のレビュー) Crit Rev Food Sci Nutr. 2014;54(5):572-9.
【要旨】
α-リノレン酸は菜食主義者における最も広く使用されているオメガ3多価不飽和脂肪酸であるが、人間の健康に強く関連しているエイコサペンタエン酸(EPA)とドコサヘキサエン酸(DHA)に変換されるのはごくわずかである。
EPAとDHAの主な食事源は魚油であるが、魚油は菜食主義者には使用できない。 代替の供給源として、亜麻仁、クルミ、藻油などが含まれるが、EPAおよびDHAへの変換を検討する必要がある。
この系統的レビューは、菜食主義における長鎖オメガ-3(n-3)多価不飽和脂肪酸のバイオアベイラビリティ(生体利用能)を調べる介入研究からの情報を得ることを目的としている。
過去10年間に発表された10の主要な論文のうち、7つの論文ではナッツや種子由来の油からのα-リノレンがDHAにまったく変換されなかったことを報告していた。 3つの研究は、微細藻類由来油の摂取が血液中の赤血球と血漿DHAの有意な増加につながることを示した。
菜食主義者の長鎖オメガ-3(n-3)多価不飽和脂肪酸の代替供給源に最適な投与量を特定し、これらを毎日の食事にどのように利用できるかを特定するために、さらなる研究が必要である。
藻油の潜在的な役割は特に有望であり、さらなる研究が必要な分野である。
植物油に含まれるα-リノレンがドコサヘキサンエン酸(DHA)にほとんど変換されないこと、微細藻類由来油の摂取が血液中の赤血球と血漿DHAの有意な増加につながることを指摘しています。
以下のような報告もあります。Algal supplementation of vegetarian eating patterns improves plasma and serum docosahexaenoic acid concentrations and omega-3 indices: a systematic literature review.(菜食主義者の食事への藻類補給は、血漿および血清ドコサヘキサエン酸濃度とオメガ-3指数を改善する:系統的文献レビュー)J Hum Nutr Diet. 2017 Dec;30(6):693-699.
背景:菜食主義者は、魚や動物製品を消費する雑食性の集団よりも、事前に形成されたドコサヘキサエン酸(DHA)の摂取量が少ない可能性がある。そのため、菜食主義者の人々は、水産物を消費する人々よりもオメガ3指数が最大60%低い。 海洋食物連鎖におけるDHAの主要な生産者である藻類は、海洋または動物製品を消費しない人々にDHAの代替供給源を提供する。この系統的レビューは、藻類型のDHAの補給と菜食主義者集団におけるDHA濃度の増加との関係の証拠を調べることを目的としている。
方法:SCOPUS、Science Direct、およびWeb of Scienceの科学データベースを検索して、菜食主義者(ビーガンを含む)の集団による藻類DHA消費の影響を評価する関連研究を特定した。
結果:4件のランダム化比較試験と2件の前向きコホート研究が選択基準を満たした。含まれているすべての研究は、DHAの藻類源が、ベジタリアン集団のDHA濃度(血漿、血清、血小板、赤血球画分を含む)、およびオメガ3指数を大幅に改善することを報告した。
これまでの研究数が少ないため、時間または用量反応は明らかではなかった。
結論:将来の研究では、藻類のDHAを使用して、菜食主義者の長鎖n-3多価不飽和脂肪酸の欠乏に対処し、これらの個人の潜在的な生理学的および健康上の改善を調査する必要がある。
菜食主義者のDHA不足を解決する方法として微細藻類由来の油が有効という提案です。
菜食主義者だけでなく、通常食の人も微細藻類由来の油の有用性が指摘されています。それは海洋汚染が深刻になり、メチル水銀やマイクロプラスチックなどによる魚の汚染が、魚食を制限するレベルまで悪化しているからです。 日本の厚生労働省や米国食品医薬品局は、マグロなどの大型魚に水銀濃度が高い例をあげ、妊婦や子供は食べないようにと呼びかけています。
【培養した微細藻類由来DHAが注目されている】
がんや認知症や循環器疾患の予防や治療にDHAやEPAが有効であることは確立しています。従って、DHAやEPAの多い脂の乗った魚を多く食べることが推奨されています。
しかし、魚のメチル水銀やマイクロプラスチックなど海洋汚染に由来する有害物質の魚への蓄積の問題が、魚食を安易に推奨できない事態になっています。
メチル水銀は毒性が強く、血液により脳に運ばれ、やがて人体に著しい障害を与えます。母親が妊娠中にメチル水銀を体内に取り込んだことにより、胎児の脳に障害を与えることもあります。
魚は自然界に存在する水銀を食物連鎖の過程で体内に蓄積するため、日本人の水銀摂取の80%以上が魚介類由来となっています。
魚摂取が増えるとメチル水銀の体内摂取が増え、胎児の脳の発育に悪影響を及ぼすことが明らかになり、厚生労働省は平成15年(2003年)に妊婦の魚摂取に関する注意事項を公表しています。つまり、妊婦や小児は魚は多く食べてはいけない食品になっています。
海洋でDHAとEPAを作っている微細藻類を人工条件で培養して、培養した微細藻類からDHAとEPAを取り出せば、汚染物質がフリーのDHA/EPAを製造できます。
微細藻類の中でもDHA含有量が極めて多いシゾキトリウム(Schizochytrium sp.)をタンク培養して製造したDHAサプリメントが欧米などで販売されています。日本でも今後増えてくると思われます。
閉鎖環境での培養のため、汚染の心配がありません。植物由来なので菜食主義者も抵抗なく摂取できます。(下図)
図:オメガ3系多価不飽和脂肪酸のエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)は微細藻類が合成している(①)。プランクトン(②)が微細藻類を食べ、小型魚(③)がプランクトンを食べ、大型魚(④)が小型魚を食べるという食物連鎖によって、魚油にEPAやDHAが蓄積している。人間は魚油からDHAとEPAを摂取している(⑤)。環境中の水銀(⑥)が魚に取り込まれてメチル水銀になって魚に蓄積する(⑦)。DHAとEPAを産生している微細藻類をタンク培養して油を抽出すると(⑧)、汚染物質がフリーで、植物由来のDHA/EPAが製造できる(⑨)。